(二一)丹楊に都し・江東に保據せんと欲し、羣臣に命じて之を廷議せしむ。
内史侍郎虞世基等、皆、以て善しと為す。右候衛大将軍李才、極めて不可を陳べ、『請ふ、車駕、長安に還らん』といふ。
世基と忿争して出づ。(二二)門下録事(二三)衡水の李桐客曰はく、『江東卑濕にして、土地険狭なり。内、萬乗を奉じ、外、三軍に給せば、民、命に堪えじ。亦恐らくは終に散亂せんのみ』と。
御史、桐客を劾す、『朝政を謗毀す』と。
是に於て公卿皆意に阿りて言ふ、『江東の民、幸を望むこと已に久し。陛下、江を過ぎ、撫して之に臨まば、此れ(二四)大禹の事なり』と。
乃ち命じて丹楊宮を治めしめ、将に徒りて之に都せんとす。
時に江都、糧盡き、従駕の驍果は、多く関中の人なり。
久しく客となりて郷里を思ひ、帝が西する意無きを見、多く・叛きて帰らんことを謀る。
郎将竇賢、遂に所部を帥いて西に走る。
帝、騎を遣はし、追うて之を斬らしむ。
而れども亡ぐる者猶止まず。
帝、之を患ふ。虎賁郎将扶風の司馬徳戡、素より帝に寵有り。
帝、驍果を領して東城に屯せしむ。
徳戡、善き所の虎賁郎将元禮・(二五)直閤裵虔通と謀りて曰はく、『今、驍果、人人、亡げんと欲す。我、之を言はんと欲すれども、恐らくは事に先だちて誅を受けん。
【二一】丹楊。帝、蒋州を改めて丹楊郡と為す。蓋建康に都せんと欲するなり。
【二二】隋の制、門下省に、録事・通事令史各々六人を置く。
【二三】衡水縣、信都郡に屬す。本、漢の桃縣。開皇十六年、信都の北界、武邑の西界、下博の南界を分ちて置く。(今の直隷省大名道衡水縣。)
【二四】禹、南に巡狩して諸侯を會稽に會す。
【二五】煬帝の制、左右監門府に、直閣各々六人有り、正五品。
『続国訳漢文大成』経子史部 第11巻,国民文庫刊行会,昭3至7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239984 (参照 2024-10-26)